今日はブッキング・コムから急に予約が入ったので、朝からルームメイキングに丘に行き、果物を買いに街に行きました。シーツや毛布など大きな洗濯は今はランドリーに持って行けるし、ガソリンスタンドもインドマートも村にありますから本当に生活が楽になりました。ただ、ゴミはまとめて町の大きなスーパーマーケットのゴミ箱に持っていかないと、村にはゴミを回収する車が来ません。インドネシアはゴミ問題で絶望的な状況にあります。
生ゴミなどは枯れ葉といっしょに焼却場を庭の隅に作って、いっぱいになると燃やすのですが、プラスティックや紙類などは町のゴミ箱に捨てに行きます。でも近所の人はプラスティックも燃やすので、毒のある黒い煙が漂ってきたりするので・・・環境汚染が進むであろうなと思います。
でも、日本で暮らすよりはゴミはずっと少なくて済みます。日本では、買い物をするたびに、ゴミの方が多く出る。
こちらでは、過剰包装はありませんし、あまり必要以上のものを買わないし。
ほんとうには、少し昔のアバビ村のように、バナナの葉っぱで包んだおかずや、土がついた無農薬の野菜を大きなバケツに入れて市場から買ってくる生活が一番なのでしょうけれど。
日本に4ヶ月近くいてから、こちらに戻ると、はっきりとその差が感じられました。
何かといえば、こちらでは人と人の距離が、ほどよく近くて遠く自然であるということ。
どんなに貧しくても、村では家族に囲まれ、友人に囲まれ、かならずその家族には小さな子供がいて、新しい赤ちゃんが加わり、老人たちは守り守られ、安心して死んでいくことができるということ。
犬や猫や鶏や家畜の豚や牛、夕方に群れで飛ばす鳩も、自然の野鳥や虫たちも、一緒に暮らす家族たちの集まりが村であるので、全てがつながっていて、他人事は存在しないのです。
ただその安心感の根底には、日本では絶対に避けたがられてきた面倒な関わり、勤労奉仕や祭りや冠婚葬祭にかかる膨大な時間や労力が支払われているのです。それだからこそ、の安心感、開放感、幸福感なのだと、私は今はっきりわかりました。
私の夫や姑はまさにその中心の役割で、村の人々との関わりの中でとにかく忙しいのですが、それを苦には思っていません。趣味であり、楽しみにしています。うちのおばあちゃんは、祭りの真ん中でどんどんエネルギーが膨らむタイプで、街から帰ってくる親類のおばさんたちはみな祭りの後には疲れて病気になっていたりします。
私には最初はまるで苦行の連続でしたが、今となっては少し楽しめるようにもなってきました。
そして、なによりも、周りの人と自然に繋がることは自由をもっと広げることだと思うようになってきました。
日本の実家では、4ヶ月の間、お隣さんに会ったことはたった3回ほどでした。その度に無駄話をしてしまう私ですが、それ以上のつながりは何もないのです。それが、お隣さんだとは。
日頃のお付き合いが何もない・・・隣近所の人は全く関係なく同じ地域にバラバラに暮らしている他人である・・・
これが、日本の空気をまるで酸素不足みたいにしている環境なのだと思いました。
私は、日本の実家のあたりには住めません。息が詰まってしまうでしょう。
そして結論は、面倒臭いことを省いてしまうと、大事なことや素敵なエネルギーはすべて抜けてしまうということ。
それは人間のする仕事全てに言えるかもしれません。
面倒臭いこと・・・これ、全ての幸せや楽しみの種なのだとおもうのです。
面倒臭いことをやり遂げるには、愛がなければいけないからです。愛があれば面倒臭いは生きがいになります。楽しみになるまで頑張れます。その先は、幸せをどんどん大きくする花が咲き始めます。
10月5日は、悠貴(勇気という漢字を変えてみました。この方がゆったりおおらかな名前でしょ。)の従兄のパンジーの赤ん坊の儀式のやり直し。夜中に生まれたので、旧暦のバリ暦の誕生日を計算違いしたらしく、27歳ですが、赤ちゃんからやり直しの儀式です。
来週からまた準備が始まる前に、大切な日常の仕事に愛を込めて過ごします。